ウォロフ語には形容詞がない
ウォロフ語には形容詞がない。
だけど、『美しい』『おいしい』『寒い』『大きい』など、名詞を修飾する単語はある。
これらは何か。
ウォロフ語ではこれらは全部「動詞」扱いなのだ。
ウォロフ語には動詞の種類がいろいろある。
▶︎状態動詞
これが日本語でいうところの形容詞的な役割をしている動詞。
例えば、neex(おいしい)、rafet(きれい)、bari(多い)、tang(暑い)、sedd(寒い)、gatt(短い)、njoor(背が高い)など。
その他に、日本語では進行形のような訳し方をするが、英語であまり『ing』を付けない動詞。
例えば、xam(知っている)、beug(好き)、deug(理解している)、nobb(愛している)など。
これらを『状態動詞』と言う。
では、名詞を形容する表現をしたい時、どんな風にこの動詞を使うか。
名詞の後ろに冠詞の『bu』を付けてそのまま状態動詞を付ける。(名詞によっては、buが変化する。)
例えば、chebjen bu neex (おいしいチャブジェン)、cafe bu sedd(冷たいコーヒー)、woto bu bari(たくさんの車)、fecci bu bees(新しい踊り)。
これが正しい構造なのだが、
この表現を、私たちは冠詞の『bu』を付けた状態で、『bubari(たくさんの)』『bubees(新しい)』『bundaw(小さい)』など、ひとつの形容詞の単語として最初に覚えてしまいがちだ。
もちろん意味は通じるだろうが、ひとたび『bu』と状態動詞が引き離されてしまうと、途端に意味がわからなくなってしまうという落とし穴にはまる。
▶︎行為動詞
これは、私たちの馴染みのある動詞。
すなわち、自分たちの意思によってアクションを起こせる動詞のこと。
例えば、fecci(踊る)、daw(走る)、togg(料理する)、bind(書く)、teugg(叩く)、naan(飲む)、lekk(食べる)、jang(学ぶ)など。
『好き』や『理解している』や『眠い』などの状態動詞と混同してしまいがちだが、こう覚えると楽。
意思によってスタート、ストップ(コントロール)ができるかできないか。
「好き」や「理解している」は意思によってその状態を抹消することはできない。
自分の意思でコントロールできるものが行為動詞。
▶︎助動詞
こちらも動詞。
動詞を補助する動詞。
例えば、mun(〜できる)、mus(〜したことある)、war(〜しなければいけない)、beug(〜したい)、geun(より〜)など。
『〜』のところに動詞が入る。
ただし、ウォロフ語の場合、動詞と動詞が並ぶ場合、間に『a』を挟むというルールがある。
この『a』は助動詞の末尾に付ける。
dama beuga dem.(私は行きたい。)
dama wara dem.(私は行かなければならない。)
dama musa dem.(私は行ったことがある。)
dafa geuna neex.(より美味しい。)
こちらも、状態動詞の形容表現と同様、『a』が付いた状態がひとつの単語と覚えてしまっている人が多い。
動詞が並列しなければ、『a』は付かない。
beug naa dem.(私は行きたい。)
war naa dem.(私は行かなければならない。)
mus naa dem.(私は行ったことがある。)
面白い助動詞『より〜』
そして、比較級を現す助動詞に面白いルールがある。
それが、【geun】と【daq】。
両方とも、より優っていることを現す比較級。
ただし、どちらの種類の動詞を比較するかが決まっている。
助動詞【geun】は状態動詞に付いて、よりよい、より寒い、より美味しい、よりきれい、など比較を現す。
助動詞【daq】は行為動詞に付いて、より上手に踊る、より上手に書く、より上手に叩く、などの比較を現す。
そんな使い分けがあることを、実はセネガル人すら意識してない。
でも、よくよく考えてみると腑に落ちる。
セネガル人に聞いても、自分が使っているウォロフ語を思い出すと確かにそうなのだ。
ただし、【daq】は行動動詞を取らず、それ単独で使う事がある。
その時は、「より良い、美しい、快適」と言う意味になってしまうから面白い。
Ami moo daq faatu. アミはファートゥより美しい。
Attaya moo daq cafe. アタヤはコーヒーより美味しい。
Cabjen moo daq Mafe. チャブジェンはマフェより美味しい。
のように。
文法を知ることが意外に近道
ウォロフ語はとくに、文法を説明できるセネガル人がほとんどいないことから、文法を学ぶという概念がない。
しかし、他の語学と同じように、ウォロフ語にも文法のルールに基づいて表現方法が変わることが多い。
それを知っているか知らないかで、普段から口にしている単語が、突然聞き取れなかったり、間違っている表現をしていたり、意味が通じなくなったりしてしまう。
やはり、何事も基礎が大事なのだ。