久々のブログ。
最近のアフロダンスシーンにほんの少しだけ違和感を感じ始めている。
それが先日、ある出来事をキッカケにその理由を深掘りできたので、ここに書き留めておこうと思う。
ワークショップでの出来事
つい先日、ガーナから人気インフルエンサーダンサーが来日し、東京でワークショップを行った。
そのクラスで、印象的な出来事があった。
一人の外国人参加者が講師にこう質問した。
「自分の国でアフロダンスレッスンを習った時に、先生から”あなたのアフロダンスは良くない。”と言われたんです。」
それに対して講師は「君のダンスは素晴らしいよ。そんなことを言う先生は悪い先生だ!」と豪語。
そして、「その人がその人らしく楽しんでいるなら、それは本当に素晴らしいことなんだ。」と、会場には温かい空気が広がり、みんなでうるうるしてしまった。
その出来事は参加者たちのモチベーションアップにもなった。
だけど、私はその後も彼女のそのエピソードが頭から離れなかった。
「指導者という立場で生徒のダンスを否定する先生がこの世にいるのか?」と。
もしかしたら、先生の伝え方と生徒の受け取り方がすれ違った可能性もある。
もしかして、アフロダンスの表現について、「もっと力を抜いて踊った方がいいよ。」と言った可能性はないかな?
私が先生で、もしアドバイスを求められたら、そう伝えるかもしれない。
日本のストリートダンスの流れ
私がダンスを始めたのは1996年。最初はジャズダンスとヒップホップから入り、1998年にアフリカンダンスを始めた。
そのころダンススクールといえば、ジャズダンスとバレエが主流で、ダンスと言えば舞台志向でストイックで少し敷居が高い感じだった。
その頃のヒップホップはアンダーグラウンドな夜のダンス。ダボダボの服を着た人たちがクラブや路上で踊っていた。
2000年代に入ると、音楽シーンがR&Bやヒップホップに染まり始め、ダンスススタジオにもヒップホップのクラスが増え始めた。
EXILEやDA PUMPの登場で、「プロのバックダンサーになりたい」という夢が現実味を帯び、
”オーディションに受かるためのレッスン”が当たり前になっていった。
そして、2012年、中学校でダンスが必修化。
ヒップホップがついに社会的に認められた『陽の当たるダンス』になった。
Dリーグなどの登場により、ヒップホップが「競技としてのダンス」「審査されるダンス」の色がさらに濃くなった。
かつての夜のストリートで生まれたダンスが、社会の表舞台で『審査されるダンス』と変わっていった。
アフロダンスのヒップホップ化
成熟しきってしまったヒップホップカルチャーの中で、インフルエンサーたちが次々とSNS上でアフロダンスを踊り出すようになった。
それが注目を集め、元々ヒップホップを踊っていたダンサーたちが大量にアフロダンスシーンに流れ込んで来たのがここ最近。
ここ1〜2年の間で、アフロダンスシーンの空気感が少し変わったように感じている。
かつての笑いながら和気あいあいと踊っていた感じが、どことなく緊張感漂うようになってきているのだ。
それはおそらくヒップホップ的なマインドセットを持つ人たちが増えてきたからだと思う。
彼らは長い間、競争の中で生きて来た。自分を表現しなければ埋もれてしまう世界で強く印象を残すことが正解とされてきた。
だから、アフロダンスを踊るときでも無意識的にその『競争の呼吸』で踊っているんだと思う。
確かにバキバキでかっこいいし。目を引くし、審査員がいたら一票を投じたくなるような迫力もある。
でも、アフロダンス本来の「周りとコミュニケーションをしながら、楽しさを共鳴させて踊る。」という呼吸とは少しぶつかってしまう。
その呼吸のズレに、私は違和感を感じるのだと思う。
ファティマタが目指す場所
強いエネルギーの方に流れてしまうのが、自然の流れ。
アフロダンスシーンもいずれはヒップホップのようにバキバキ踊るスタイルが主流になっていくかもしれない。
というか、すでにそうなっている気がする。
でも、それでもいい。
私は、私だ。
そこに合わせるつもりはない。
コレオグラフは早く覚えられた方がもちろん良いけれど、
覚えられなくたっていいし、
正確に踊れなくてもいい。
大事なのは、感じるままに体を動かして、周りと共鳴しながらダンス自体を楽しむ。
私にはその精神を信じてについてきてくれる仲間がいる。
ファティマタクラスは、上手く踊る場所ではなく、心を解放して『感じる』場所。
もし、あなたが競争社会に疲れたなら、ここで一緒にリズムを取り戻そう。
音に身を委ねて笑い合う時間が、きっとあなたを癒してくれるから。