成長しないわけがない。「にいがた総おどり」に生徒を連れて行く理由

にいがた総おどり(新潟総踊り)に、ファティマタ連で参加する理由。高知よさこいとの違いや、日本の祭りで踊る楽しさ、仲間と成長する体験を、FATIMATAが語ります。

おそろいの衣装でポーズをとるファティマタ連の集合写真

高知よさこいと、にいがた総おどりが終わって、ようやく私の夏が終わった。

この二つのお祭りについて、「どちらに参加するのがいいですか?」と聞かれることがある。

どちらも、それぞれの良さがある。

そして、この二つのお祭りを比べるには、コンセプトが違いすぎる。

ストリートで踊り、沿道のお客さんに見てもらい、いろいろな会場で演舞を披露する。

表現の形は似ているけれど、参加している私の感覚では、全く別物。

大きな晴れ舞台と、思いを共有するコミュニティ

高知よさこいには、お祭りという大きな晴れ舞台があって、私たちはチームを通して、そこに参加する。

あの規模のお祭りの中で踊れること自体が、ものすごい体験だ。

県を挙げての、日本を代表するようなお祭りである。

お祭りへの愛情とともに、自分のチームへの愛情や、その一員として参加する誇りを感じる。

一方、にいがた総おどりは、お祭りそのものが一つの大きなコミュニティのように感じられる。

祭りの軸にあるのが、「心を込めて踊る」というコンセプト。

私たちは「ファティマタ連」という団体で参加している。

どの団体にもそれぞれの個性があるけれど、一人ひとりが「心を込めて踊る」というコンセプトに惹かれて集まっているように感じる。

我々自身が、お祭りの一部(細胞)となって、お祭り全体の息吹になっているような感覚がある。

プログラムには、他のチームの演舞を見る時間もある。

日によっては、チームを越えて飛び入りで一緒に踊ることもできる。

自分たちの出番だけで終わらず、お祭りの中で人と人がつながっていく。

そのあり方が、私が普段のダンスクラスで伝えたいことと、とても重なっているのだ。

一回の本番で終わらないから、成長できる

私たちは、にいがた総おどりに向けて、一年をかけて準備をしている。

その土台を作っているのが、普段のレッスンだ。

毎年、ファティマタ連は3日間のお祭りのうち2日間に参加し、1日3回、計6回の演舞ができる。

この「6回」が、実はすごく大きい。

一般的な発表会では、長い時間をかけて準備をしても、本番のステージは一回きり、ということが多い。

ステージに立つと、たくさんの課題が生まれる。

でも、次のステージの機会が「また来年」となると、その時に感じた課題も、時間とともに薄れてしまう。

では、本番が6回もあると、どうなるか。

踊って、気づいて、直して、また踊る。

自分の中で磨いたものを次の演舞に生かし、お客さんの生の反応を見て、自己採点する。そして、また次の演舞で試す。その繰り返しができる。

成長しないわけがない。

沿道のお客さんの前で、腕を広げて踊るファティマタ連

「心を込めて踊る」を、見ることで知る

もう一つ、私が楽しみにしているのが、ほかのチームの演舞を見る時間。

にいがた総おどりには、フィナーレという時間があり、総おどりを代表する団体が演舞する。

私たちはいつも有料観覧席を買って、そこでゆっくり演舞を見る。

お祭りを支えるホストチームをはじめ、その舞台に向けて練習を積み重ねてきた人たちの踊りを見ると、日頃からどれだけ練習してきたのかが伝わってくる。

プロのダンサーばかりではない。

百人以上いるような大きなチームでも、最前列だけではなく、最後列の一人まで本気で踊っている。

見ていると、感動するし、涙が出る。心が震える。

夜の会場で、笠と色とりどりの衣装を身につけて踊る人たち

技術の上手い下手だけでは説明できない、人の心を揺らすものがある。

私はそこに、踊りに込められた魂を感じるのだ。

「心を込めて踊って」と言葉で伝えることは簡単だ。

でも、誰かの踊りを見て、自分の心が本当に動いたときに受け取るものは、言葉だけでは届かないところまで入ってくる。

そして、その感動をもらった私たちの翌日の踊りが変わるのも、想像できるだろう。

「心を込める」の意味が頭と心で合致した時に、自分たちのパフォーマンスにも魂が宿る。

受け取ったエネルギーを、今度は見ている人たちに差し上げる。

そのつながりこそ、このお祭りの大きな魅力なのだ。

踊る時間も、一緒にごはんを食べる時間も

演舞と演舞の間には、新潟を楽しむ時間もある。

おいしいものを食べたり、仲間とゆっくり話したり。

普段のクラスで会うだけでは持てない時間を、一緒に過ごせる。

長いテーブルを囲み、仲間と食事を楽しむ様子
踊る時間も、一緒にごはんを食べる時間も。

本番で挑戦して、ほかのチームの演舞に感動して、仲間とごはんを食べて、また踊る。

その全部が重なって、たった2日間なのに、とても濃い時間になる。

技術だけでなく、心も成長して帰ってこられる。

私にとって、にいがた総おどりは、そういうお祭りなのだ。

アフリカの踊りを踊る私が、日本のルーツを感じる場所

そして、もう一つ。これも伝えたい。

にいがた総おどりは、お祭りが生まれたルーツを大事にしながら、それを今の人たちに届く表現として見せている。

私たちは、アフリカンダンスを踊っているチームだ。

その私が、新潟で太鼓や笛の生演奏を聞いて、心が震える。

日本にも、踊りやリズムを通して、人と人がつながる文化があることを、心で感じることができる。

私自身、日本で生まれ育ったという土台がある。そのことを、改めて味わう時間でもある。

そして、日本もアフリカも根っこは同じなのだと感じる。

だから、一緒に新潟へ来てほしい

私が生徒たちをにいがた総おどりに連れて行きたいのは、自分たちの練習の成果を披露してほしいからだけではない。

本番の中で課題を見つけて、次の演舞で挑戦すること。

誰かの本気の踊りに、心を揺さぶられること。

受け取った感動を、今度は自分の踊りに込めて、沿道のみなさんにお返しすること。

仲間や、チームを越えた人たちとつながり、踊りやリズムの文化を体で感じること。

私が普段、生徒たちに伝えようとしていることを、ここでは全身で受け取ってもらえる。

参加した生徒さんからも、「また来たい」「まだ来たことのない人にも伝えたい」という声が出る。

でも、言葉じゃなかなか伝わらないのよ。

にいがた総おどりには、私のダンスへの思いと深く重なる体験がある。

ぜひ一緒に味わってほしい。

にいがた総おどりこそが、私がレッスンで伝えたいことを、言葉を超えて感じてもらえる場所だから。

それが、私が毎年、にいがた総おどりに参加している理由なのだ。

初回公開:2026年9月25日

私を変えたサバールダンスというマジックショー

初稿: 2013年5月17日
再編集・再投稿日: 2026年9月7日

この記事は2013年に書いた体験を、当時の言葉と温度を残して再編集したものです。


「なんで、音がついて来るの? なんで?なんで?」

これが、私がセネガルで初めて現地のダンスを見た時の感想。

衝撃だった。

セネガルのダンスパーティーで腕を上げて踊るサバールダンサー

私はそれまでいろんなダンスを学んでいたし、いろんなステージを見て来たが、ダンスを見てここまで衝撃を受けたのは初めてだった。

そのダンスは私の知識や想像を良い意味で完全に裏切った。

要するに、いままでの踊りに対する概念を完全に覆された。

文字にするとそのすごさが全く伝わらないのが悔しいが、大勢いるドラム奏者の演奏と、ダンサーの動きがピタっと合うのだ。

サバールを演奏するドラマーと踊り手

でも、このピタっと息の合うドラムの音とダンサーの動きがなんの打ち合わせもなく合っているのだ。

しかも、音はまるで機関銃のように速く、日本人の私からしたら、どこで拍をとっているのかも分からない。

スティックでサバールのリズムを刻むドラマー

私が見ていた現場は、演者と観客を隔てたステージではなく、観客参加型の路上ライブのようなダンスパーティー。

屋外のダンスパーティーを囲んで見る観客

そこに集った者たちが勝手に踊り出す。

順番が決まってるわけでもない。

ひとりが飛び出し、その人が踊り終わったら別の誰かが飛び出し踊る。

観客の輪の中心でアクロバティックに踊るダンサー

集った人たちでサークルができるので、その中心がいわばそれぞれのダンスを見せるステージになる。

観客は360°という感じ。

セネガルのダンスパーティーを見守る女性たち

私の今までのアフリカンダンスのイメージは、『天に捧げる』とか『豊作を祈る』とかそんな意味のあることを、トランス状態になって踊るイメージだった。

それがどうだろう。

ところが、私が目の前で見たサバールダンスは、そんな私のイメージとはまったく違い、今まで見てきたエンターテイメントをはるかに越えていた。

不思議な上に、面白い。

ドラムの大音量とそのスピードから、聞いてるだけでも息があがる。

そこに、アクロバティックなダンスが加わる。

華やかな衣装でサバールダンスを踊る女性

そして次から次に飛び出すダンサーの激しい動きに対して、ドラムの音がピタっと合うのだ。

それは、まさにマジックショー。

機関銃を撃ちまくる様なドラム演奏に、ダンサーの動きのアクセントで、ドラマーの演奏もアクセントが入る。

「なんで合うの?なんで?テレパシー?なんで?」

踊ってる人は選ばれた人ではない。踊りたい人が勝手に踊り入って来る。

試しに、自分も勇気を出してその円の中心に踊り出てみた。

私はダンスを習っているし、ダンスは普通に踊れる。

リズムをどこで取っていいか分からないが、きっとこの円の中に入ったら、なにか不思議な現象が起こるのかもしれない。

そう思い、すごい勇気で円の中に飛び出してみた。

観客はセネガル人でない私を見て、興奮し、期待の声を上げた。

何か踊ってみた。

が、しかし、様子がおかしい。

ドラムの伴奏は続いているものの、いちばん要であるリーダーの手が止まった。

しかも、チャンチャラおかしいや、といった呆れ顔。今までダンサーを見ていた鋭い眼差しと駆け引きを楽しんでるずる賢い表情はパッと消え、急にそっぽを向いてしまった。

今までのダンサーがしていた様に自分も踊りにアクセントを入れてみるが、まったくドラマーたちは反応してくれない。

見てる観客も「あーあ」と言ったトホホ顔だった。

私は顔から火が出るほど恥ずかしかった。

穴があったら入りたいとはこういうこと。

自分のチャレンジがここまで虚しく感じたのは初めてかもしれない。

私はその円の中心から逃げるように元の場所に戻った。しばらく心臓のバクバクと手の振るえは止まらなかった。

ダンスパーティーはなにもなかったようにまたセネガル人たちが次から次へと踊り出す空気に戻った。

なんて、怖い現場だ。

ほんとに不思議だった。

目の前では、ダンスの動きに対してドラムの音がピタッと合う。

どんなに目を凝らして見てもその法則が分からない。なんでダンサーの動きに音が合うのかヒントすら分からない。

「きっとこうだろう」という推測すらできない。

不思議なダンス。

それがサバールダンスだった。

これが、私がサバールダンスに魅了されてしまったキッカケだった。

このダンスのトリックをどうしても解明したい。

いや、解明しなければもう寝れない。

それから、日本に戻り、日本在住のセネガル人が主催しているサバールダンスクラスに通うようになった。

ステップの手順は分かった。

私は普段からダンスをしているので、そのステップの順番を覚えるのはたいして難しくなかった。

だけど、肝心な私が知りたいトリックの種明かしを教えてもらえることはなかった。

サバールダンスを習い始めて3年が過ぎようとしていたが、私は未だにそのトリックを解明できてなかった。

その間に何度かセネガルに行き、またあの恐怖のチャレンジを試みたが、結果は同じだった。

私がサークルの中に踊り出ると、空気がシレっとなってドラマーの手が止まる。

やっぱり、よそ者は受け入れられないようだ。ものすごい疎外感を感じた。

その時の私の結論はこうだった。

セネガルのダンスはセネガル人が踊る物で、我々のような外国人は踊っちゃいけない。

それにしても悲しすぎる。ここまで魅了されたダンスは今までになかったから。

でもどうしても諦めきれなかった。

また別の年にもう一度セネガルに行った。

そこで光が見えた!

今まではダンサーにダンスを習って来た。

しかし、その年はドラマーに私のダンスを見てもらい、自分のリズムの取り方が合っているのか、一つずつ確かめる、という習い方をしてみた。

そこで初めて、同じように踊っているつもりでも、音と噛み合う動きと、噛み合わない動きがあることが分かった。

まさにそれこそが、ずっと何年も私が欲しかった、知識。

私がトリックと思っていた種明かしの部分だった。

私が出会った人たちは、何もそのトリックを隠していた訳じゃない。

私で言うトリックは、彼らにとって呼吸のように自然なことだった。

だから、あえて言葉にして説明する必要がなかったのだと思う。

自分が見つけた物を、私は日本人に伝えられる形に分解し、言語化しようと思った。

種明かしを説明できれば、私たちもマジックショーのようなダンスを共有できる!

それからというもの、私の言葉で、私の解釈でサバールダンスを伝えるようになった。

それが、私がサバールダンスを自分のダンスクラスで教えるようになったきっかけである。

その当時、私が見ていた範囲では、あのサバールの機関銃の中に踊り出る日本人はほとんどいなかった。

今では、たくさんの日本人がサバールダンスを楽しんでいる。


サバールダンスを、自分の身体で感じてみたい方へ

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