01日記

第17回旅のノンフィクション大賞【優秀賞】に入賞しました。 

作品です。↓↓↓↓↓

セネガルがくれた宝物

私のダンサーネームはFATIMATA(ファティマタ)。

セネガル現地で付けてもらった。

私はセネガルの伝統舞踊『サバールダンス』を日本のダンスシーンに伝えた第一人者として、FATIMATA(ファティマタ)という名前でダンスパフォーマンスやトークショーでセネガル文化を日本で伝えている。

よく聞かれる。 「ファティマタってどういう意味ですか?」

意味はない。

イスラム教の預言者モハメドの娘の名前で、イスラム圏の人に言わせると偉大な女性の名前としてこの名にあやかり、同じ名前を付ける女性はとても多いらしい。

呼び方は『ファティマ』や『ファートゥ』とも変化する。

2003年、私がダンスの勉強のため単身でセネガルに2ヶ月滞在した時があった。

言葉もろくに通じない中、「君は友達だ」と調子良く近づいて来た現地の人が、結局お金目当てだった、というような事が何回か続いたことがあった。

日本のテレビで見るような、タレントが途上国に行って、ウルウルするような感動的な体験などは実際にはあり得えず、文化や習慣が異なる土地で何かを習得するということは、危険を冒して虎穴に入ることと一緒なんだと思っていた。

セネガルの生活に対して常に警戒心を持つ様になっていた中、私の唯一の心のより所はインターネットカフェだった。

いつも心が折れそうになった時はインターネットにつながって日本語に触れる。

そうすることで一瞬現実逃避ができた。

ある日、私がいつものようにネットサーフィンしていた時、変なおっちゃんが入って来て、私に話しかけた。

その人は、インターネットをする訳でもなく、ただフラッと立ち寄ったようだった。

「こんにちは。君は、中国人か?」

私がネットに夢中になっていることぐらい見れば分かるのに、そのおっちゃんはまったく空気を読んでくれない。

どんなに無視していても、それでもしつこく話しかけてきた。

「名前はなんていうんだ?」

何で私の名前を教えないといけないんだ。

私は断固として無視し続けた。

「おい、何か答えないか?」

私は、面倒くさそうな顔をして、チラッとそのおっさんに目を移し、言葉が通じないフリをして、また画面に顔を戻した。

「おまえは、何も答えられないのか。今日からおまえをファティマタと呼ぶぞ!おい、ファティマタ、おまえは中国人か!」

超、イラついた。

私はファティマタじゃない。

てか、勝手に名前つけんな。

そもそも、ファティマタってなんだよ。

変な名前。

勝俣(カツマタ)じゃあるまいし。

と、心の中でツッコミを入れた。

私は、これ見よがしに大きなため息をついて、パソコンをシャットダウンし、その場を立った。

あなたが邪魔して集中できません。といわんばかりに大きな音を立ててガサツに椅子を戻した。

翌日、またインターネットカフェに行くと、またそのおっちゃんがやって来た。

「こんにちは、ファティマタ!」

彼の中では私はすっかりファティマタになっていた。

それでも私は相手にしなかった。

「おい、ファティマタ!」

チラッと目をやると、完全にこちらを向いている。

私がどんなに無視しつづけても、そのおっちゃんは私を「ファティマタ」と呼んで話しかけてきた。

私は毎日のように、ダンスを習いにある所に通っていた。

滞在費を節約するために、タクシーは使わず、外国人には危ないと言われているカーラピッドと呼ばれるミニバスを利用していた。

私の住んでいるアシュラム1丁目のアパートからカーラピッドが乗れる大通りまで10分ほどの道のりがあった。

大通りに出るまで自動車整備所のような工場が立ち並ぶ人通りの少ない裏道を通らないといけなかった。

そこの通りは汚れた作業着を着た男たちが、たくさん作業していた。

私は正直そこを通りたくなかったが、しょうがない。

いつも足早で通り抜けていた。

ある日、作業している男が、私が通りかかるのを見てその手を止めて呼び止めた。

「サヴァ!」

セネガル人はとても人懐っこく、誰を見かけても挨拶をしてくる。

私はスキを与えないよう絶対笑顔を出さず、とにかく言葉が分からないフリをして足早でそこを通りすぎることに集中した。

それでも、彼はしつこく話しかけてきた。

「君の名前は?」

セネガルでは名前を呼び合うのも挨拶のひとつ。

だから、いろんなところでやたらと名前を聞かれる。

ここでもそうだ。

でも、まともに名乗るのも面倒くさい。

足早に通り過ぎながら投げやりにこう答えた。

「ファティマタ!」

それからというもの、私が毎日そこを通るたび、作業着を着た男たちが、作業の手を止めて「ファティマタ!元気?」と手を振るようになった。

みんながファティマタと呼ぶうちに、その周りにいる人たちも私をファティマタと呼ぶようになった。

いつの日か、アシュラム1丁目で顔を会わす人たちは、みんな私のことを「ファティマタ」と呼ぶようになった。

アパートの住人、外ですれ違う人、工場のお兄さん、インターネットカフェの店主まで。

みんな私の顔を見ると「ファティマタ、元気?」と声をかけて来た。

恥ずかしいことに、私は声をかけてくれる人たちの名前を知らなかった。

私はセネガルに来て、ずっと孤独だと思っていた。

女も男も特別な関係になれば、きっとお金を欲しがられる。

ずっとそう思っていた。

そんな中、いつでもアシュラム1丁目のご近所さんたちは私を見れば「ファティマタ!」と声をかけ、どこに行くのか尋ね、帰ってくると「お帰り!」と迎え入れてくれた。

特別な友達がいなければ孤独だとずっと思っていたが、そうじゃなかった。

たった2ヶ月だったが、アシュラム1丁目は私にとって帰ってくれば迎え入れ、出かける時は送り出してくれるホームのようになっていた。

みんなが呼んでくれた「ファティマタ」がもう聞けなくなってしまう帰国の日が来た時、私は気がついた。

特別な意味を持たせる人間関係にこだわるよりも、関わった人たちを大切にするホームの温かさがどれだけ自分を支えてくれたか。

セネガル最後の夜、涙が止まらなかった。

もっと早くそのことに気が付けば、みんなにもっと笑顔で接することができたのに。

名前を呼んだり、挨拶を交わしたり、そんな些細な事でよかったのだ。

そんなことが、私にはできなかった。

今でもみんなの「ファティマタ」という声が懐かしい。

彼たちは私がどんな名前でも同じように呼びかけ、温かく接してくれたに違いない。

それでも『ファティマタ』という名前は私にとって大切な気づきをくれた名前になった。

FATIMATA。

今では私の大切な名前である。

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