ファティマタセネガル物語は2004年にファティマタが経験したノンフィクションストーリーです。
いざ!脱出!
ヤマは家の外に出ると、タクシーを呼び止めた。
こっちを見ると、私にそのタクシーに乗るようにジェスチャーで示した。
そして、ヤマは忘れ物がないかもう一度部屋の中へ戻って行った。
「そんな忘れ物、どうでもいい!早く!」
私は声に出さずに叫んだ。
早くこの場を去りたい。
それだけだった。
ヤマが紙袋を手に戻ってきた。
「行くよ。」
ヤマはタクシーに乗り込み扉を閉め、運転手に行き先を告げた。
タクシーが動き出した。
私たちはベンジーの家を脱出した。
タクシーが出発した後も心臓が高鳴り、手がずっと震えていた。
とりあえず助かった。
ヤマは笑いながら両手を上に上げ、「平和を取り戻したぞ。」と叫んだ。
私も両手を上に上げ、ヤマの手をパチンと叩いた。
私は後ろを振り返り、ベンジーの家を見た。
その家はだんだん小さく離れて行った。
神へ感謝!
今、こうして、あのベンジーの家を脱出できた。
つい数十分前までこの状況を想像できただろうか。
参加者がセネガルに到着するのは今日の夜。
神様は裏切らなかった。
タクシーが止まった。
「ここだよ。」
ヤマが荷物を降ろしだした。
私はタクシーの運転手にお金を払うと家を見渡した。
その家は一階建で、白い壁のとてもさわやかで明るい家だった。
庭は手入れされていてゴミひとつ落ちてない。
まだ薄暗い夜明けでも、その家は今までの暗いすさんだ家の印象とは全く違っていた。
ヤマが裏に住んでいる大家さんを訪ねた。
寝起きの大家が表に出てくると、ヤマは大家はしばらく立ち話をしていた。
どうやら、家賃の値段交渉をしているらしい。
ヤマは身振り手振りで私たちが今までにあったトラブルを説明して手持ちのお金がないことを説明していた。
大家はヤマの説得に折れたように、ため息をつきながら何度もうなずいていた。
交渉が成立した。
これ以上下げられないという金額まで下げてで貸してくれることになった。
大家は門の鍵を開けると、「これが門の鍵、そしてこれがドアの鍵、そしてこれがそれぞれの部屋の鍵。セキュリティーはバッチリだから。」と説明してその鍵を私に渡してその場を去った。
新居へ
私はドアを開けて家の中に入った。
家の中もこざっぱりと清潔で中庭には洗濯ロープがかかっていた。
中央には白くて丸い大きなテーブルにオシャレな椅子まであった。
部屋にはカラフルな模様のシーツの大きいベッドに鏡台やタンスがあり、居間にはテレビとエアーコンディショナー、台所には大きい冷蔵庫のほかに食器棚にはお料理のための器具やグラスや食器なども揃っている。
部屋の窓を開けると、すぐ庭があり、そのスペースはダンスレッスンをするのにちょうどよい場所だった。
「今日からここが私たちの家だぁ!!」
ヤマが叫んだ。
私も同じように一緒に叫んだ。
ヤマと二人でふかふかのベッドにバサっと横になった。
これでやっと思い描いていたワークショップができる。
みんなを空港に迎えに行って、この家に連れて来た時の反応が目に浮かぶ。
きっとみんな大喜びするだろう。
ヤマも同じことを考えていた。
「ここなら、みんな喜ぶね。」
そして更にヤマがポツンと言った。
「私がお手伝いさんやるよ。」
ヤマが掃除をしているところを見たことがないが、私は笑って「よろしく」と答えた。
参加者たちがダカールに到着するのは今日の夜。
ヤマは伸びをすると、「準備開始!」とベットから飛び降りて、掃除をし始めた。
やっとワークショップの実感が沸いて来た。
初めて企画するセネガルツアー。
日本人で初のセネガルでのサバールダンスワークショップ企画!
いろんな事があったけど、今はいろんな出会いと別れに感謝できる。
全てに意味があったんだね。
私はヤマの方をじっと見つめた。
「ヤマ、ありがとう。」
今までいろんなありがとうを言ってきたが、心の底からの一言だった。
ヤマは鼻で「フッ」と照れくさそうに笑うとそのまま掃除を続けた。
タンガナツアーについて
このセネガルツアーは2005年から始まり、毎年1月の時期に開催し、今年2014年で10年目を迎えた。
毎年、いろんな困難をひとつずつ乗り越え、参加者数が延べ100人を越えるほどにまで成長し、世界中から注目を浴びるほどの人気ツアーに成長した。
2005年
タンガナツアー(2009年に『セネガルツアー』から『タンガナツアー』に改名)開始。セネガルのトップダンサーパムサを専属ダンス講師として迎える。
2006年
参加人数が倍に。新しいお手伝いさんを雇う。ヤマは出産により引退する。
2007年
口コミで参加者が19名に増えたが、空港でツアーの運営費である現金約60万円が盗まれる。これを機にダカールに銀行口座を開設する。現地スタッフも増員。しかし、現地スタッフの身勝手な行動に悩まされる。
同年、セネガルの人気歌手『TITI』のプロモーションビデオに参加し、セネガル全土に日本人ダンサーの存在をアピールし話題を集める。
2008年
EXILEのUSAが参加。お手伝いさんの怠慢が目立ちはじめる。お手伝いさんよる経費や食材の流用が頻発し、これまでのお手伝いさんを解雇をする。
2009年
異常気象による体調不良者が続出。ツアー中に風邪のウィルスが蔓延し、参加者、セネガルスタッフ共病気で寝込む事態が発生。セキュリティとして雇っていた現地スタッフがツアー経費を少しずつ横領していたことが発覚し解雇をする。
同年、セネガルダンスアワードのステージでパフォーマンスをする。
2010年
現地スタッフを統括するリーダーを雇い、セネガル人スタッフの統制を図る。日本人スタッフも増やす。
タンガナツアーが注目を浴びるようになったことから、この年からスタッフTシャツを採用。
スタッフは必ずTシャツを着用し、それ以外の人は家に入れないなどしてセキュリティの強化を図る。
調理担当として50代のベテランのお母さんを採用。衛生管理や栄養管理の充実化も図る。
2011年
統括リーダーの他に、セキュリティースタッフ、ベテランのお手伝いさんをもう一人雇う。
セネガル人と日本人のスタッフミーティングを毎日かかさず行い、ツアーのクオリティ向上を目指す。
セネガルの国営放送にドキュメンタリーとしてタンガナツアーが紹介される。
2012年
ダンスクラスの他にドラムクラスも増え、例年の2週間コースから、4週間コースも増やす。
バラエティ番組にもタンガナツアーが取り上げられる。
2013年
海外からの参加も増える。
2014年
10周年のタンガナツアーの他に、旅行会社とタイアップして1週間のリゾート観光ツアーも企画。
しかし、西アフリカにエボラ出血熱が流行し、参加者の安全面を考慮したことから、ツアーが見合わせとなる。
このタイミングで、FATIMATAに新しいインスピレーションが降りて来る。
そして、2014年11月、FATIMATAは新境地を求め、また新たな旅がスタートする。
次に導かれている道はいずこ?