私がセンターに立たないステージ
2/22、生徒の発表会を控えている。
発表会とは言っているが、私は生徒と一緒に踊るショウタイムのつもりだ。
今まで「発表会」と言って来たものはみんなそうだった。
表向きは「発表会」とは言っているが、中身はファティマタ&仲間たち。
私も必ず一緒に踊る。
しかも、毎回、一番盛上がる重要なパートでは、私が一番目立つポジションで踊っていた。
しかし、今回のステージはそれを一変させた。
それは、
私が、ほとんど踊らない。
体の限界?
去年からずっと、膝の調子が悪い。
踊れば踊るほど悪化する。
クラスを1本終わらせると、たいてい膝が炎症起こして腫れている。
まだ、板張りの床ならよいが、床が固かったりすると、帰りは足を引きずって帰らなければいけなくなる。
それで決めたのだ。
「今回はあまり踊らないことにしよう。」
今まで見えなかったこと
誰よりもダンスが好きだと自負しているような私が、『踊らない』と決めるのは断腸の思いのように見えるが、それが、それほど苦痛ではなかった。
なぜなら、自分が踊らないことで、人を踊らせることの楽しさが今までよりも倍増してしまったから。
もちろん今までも生徒が踊れる様になるのは楽しかった。
だけど、自分がセンターに立っている間は、無意識的に『自分がこの中で一番でいたい。』というエゴが働いていた。
でも『踊らない』と決めた今回は、こんな気持がいつもあったのだ。
『どのパートで誰を一番にしよう。』
ソチオリンピックのコーチと選手
そんなタイミングでのソチオリンピック。
プレッシャーの中で闘っている選手も感動的だったのだが、それを支えて来た指導者たちの表情、インタビュー、エピソードにやたら目が行ってしまった。
当たり前のことだが、監督やコーチのいない選手はひとりもいないのだ。
選手はコーチを信じ、コーチは選手を信じ。
どちらが欠けても成り立たない。
今まで私は、コーチ(先生)は選手(生徒)より名プレイをしなければ、指導者としてかっこ悪いと思って来た。
だけど、それは私のエゴによる思い込みだったのだ。
このオリンピックというタイミングで、それが決定的なものになった。
今回、自分の役回りを変えてみて、ようやく指導者としての自覚を持てたような気がする。
そして、今までの迷い、『踊らなかったらダンサーとしての価値はない。』という気持はすっかりすっ飛んだ。
なぜなら、最後のリハで楽しく華やかに舞う生徒たちを客観的に見て、心が踊る自分がいたから。
私のダンスは終わることはない。
私の元で踊りたいと思ってくれる人がいる限り・・。
生徒たちと踊ります。(後ろの方で(笑))
ファティマタ号 2/22本番 ➡ 詳細
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神に祈りを捧げなくても、豊作を願ったりしなくても、パンツスタイルでラフに楽しく踊れるアフリカンダンスがある。
初めてでも大丈夫。ダンスの後は体のアフターケアも加えて心も体もリフレッシュする時間を週に一回作りましょう。
(水曜日、土曜日 @水道橋)